2009年6月



「捨ててしまった大切なもの」


 「私、謝るのが嫌いなんです。『私は悪くないもん』と、思ってしまって、本当に自分が悪いときでも絶対に謝れなくて…。あとで嫌な気持ちだけが、ずっと残ってしまいます」


 会社での人間関係に悩んでいるというA子さん(34歳)は、一見したところ、とてもおとなしそうな雰囲気の女性です。


 その彼女がセラピーを受けるようになって、日常のちょっとした出来事をきっかけに、以前は感じたことのない怒りを感じることが多くなったそうです。これまでずっと周りの人たちに合わせてやってきたA子さんは、自分は控え目な性格だと思っていたので、この変化に自分でも驚いていると言います。特に、自分の部屋に一人でいると、父親に対して叫び出したくなるほどの激怒が出てくるようになったそうです。


 彼女の父親は、気分次第で怒り出す人でした。幼いA子さんは、いつも理不尽なことで怒鳴られたり、殴られたりしていました。最後には決まって「言うことを聞かない子は、捨ててしまうぞ」と言われ、たとえA子さんが悪くないときでも、必ず「ごめんなさい」と言わされていたそうです。



■誰かに心から謝ってもらえたとき


 先日テレビで、天皇陛下の金婚式にちなみ、これまでの50年間の出来事をまとめた特集が放映され、A子さんも何となく視ていたそうです。その中で、サイパン島がアメリカ軍に占領され、民間人を含む多くの人々が捕虜になるのを拒んで、「天皇陛下万歳!」と叫びながら、断崖から海へ身を投げて死んでいくフィルムが流されました。次に、その後数十年経って、サイパンを訪れた天皇陛下が、深く頭を下げて謝っている姿が映りました。A子さんは最初、「どうせ、格好だけ謝っているんだ」と思っていましたが、そんな彼女にも天皇陛下が心から謝っているのが次第に伝わってきたそうです。


 「どうして? 父親の昭和天皇が起こした戦争で、この人本人は悪くないのに、なんで謝ることができるの?」


 テレビの映像を視ているうちに、A子さんは涙が止まらなくなりました。そして、「天皇陛下、万歳!」と叫んで海に沈んでいった、名もない人たちのことばかりが心に浮かんできたそうです。「お国のために」と言われ、自分の大切な生命を投げ捨ててしまった人たち。彼らが魂になった後、そのことについて、一体どのように思うのだろう…。


 「私もこの年まで生きてくると、世間から後ろ指を指されないように、自分の大切なものを放棄してしまった人たちに何度も出会ってきました。そして気がつくと、自分の人生も、父と同じような虚しい人生になっている。自分がそうなって初めて、父の生き方は悲しい、と思うようになりました」と、セラピールームを訪れたA子さんは語りました。


 彼女は、催眠に入るとすぐに夢を見ました。夢の中で、父親の両親、つまり彼女の祖父母がA子さんを訪ねてやって来ました。彼女が生まれる前にはもう二人とも亡くなっているので、会うのは初めてなのに、A子さんにはなぜだか祖父母だとはっきりわかります。


 「いくら父親とは言え、息子があんなひどいことをして、あんたには辛い思いをさせた。本当に申し訳ない」


 彼らは、何度も何度も頭を下げて謝ります。「あなたたちが悪いんじゃないから、そんなに謝らないでください」とA子さんが言うのですが、なおも彼らは謝り続けます。そのうち、実際には会うことの出来なかった祖父母の彼女に対する深い愛情が胸に伝わってきて、A子さんは泣き始めました。それと同時に、封印していた父との辛い思い出が次々と浮かんできて、心をえぐられるような痛みがよみがえって来ました。


 「わしらの育て方が悪かったせいで、あんたがこんなに苦しんでいる。どうか許しておくれ」


 祖父母からの想いが深く伝わってきて、彼女の心に沁みていき、次第に優しくて温かい感覚に柔らかく包まれていきます。そのようにして痛みを堪えていた気持ちが弛むと、胸の奥から悲しみがこみ上げてきて、涙はさらに溢れ出てきます。長い間封印していたものが流れ出ていくような涙です。最後に彼女は、「来てくれてありがとう」と祖父母に伝えました。



■自分が捨てられたくないから、大切なものを捨てる


 すると場面が変わり、彼女は高い断崖の上に立って、海面から牙のように突き出た岩に激しい波が当たっているのを見おろしています。白く泡立った海の底には、捨てられて死んでしまった自分自身がゆらゆらと揺れています。


 無邪気に楽しく遊んでいた幼い自分。生まれてきて、出会うものに興味いっぱいで、誰かと一緒に遊ぶのが大好きで、そんな自分のことも大好きだった自分。感じたことを全身で自由に表現していた自分。今の彼女が失くしてしまったものが、冷たい海の底に沈んでいるのです。


 その光景を眺めているうちに、A子さんの脳裏には、父親に怒鳴られて泣いている幼い自分のイメージが次々に浮かんできました。


 「世の中は、そんな甘いもんじゃない」


 「生きるということは、苦しいことなんだ」と、父の口癖がどこからともなく聞こえてきます。


 すると今度は、海の底から捨てられた幼い自分が現れて、暗い瞳で彼女を見つめ、「見ろ」と言いました。


 A子さんはうろたえて、段々胸が苦しくなってきました。


 それでも海の底の自分は、「見るんだ、お前が捨てたんだ」と迫ってきます。幼い彼女からは激しい怒りと、深い悲しみが伝わってきました。「自分が親に捨てられたくないから、この私を捨てたんだろ」。そう言って、幼いA子さんが泣いています。


 「私は、父の機嫌が悪くならないように、ずっと自分を押し殺してきました。幼い頃の私は、父親の代わりになって自分で自分を叱りつけていたのですね。そして、大切なものを捨ててしまったのですね」。A子さんの顔は、苦痛にゆがんでいます。捨てられて死んでしまった暗い幼い瞳に見つめられていると、A子さんは「もう、取り返しがつかない」という絶望的な気持ちに襲われました。「自分が悪いんだ。自分がダメだから、こんなことになってしまった。惨めで、何もできない。深い悲しみ、絶望、そして虚しさだけがあります」。そんな気持に押しつぶされて、今の自分にはどうすることもできない、とA子さんは言います。



■相手の痛みを一緒に感じる


 そこで、私が言いました。


 「今あなたが感じているのは、あなたに捨てられてしまった幼いA子さんが、ずっと感じていた気持ちではないですか?」


 A子さんは、「こんな気持ちにさせてしまったんだ」と、声を上げて泣き出しました。


 そして彼女は、海の中に入っていきました。底までたどり着くと、水の冷たさが骨までしみてきます。青黒い水に光はさえぎられ、水圧に押しつぶされ、波が岩にぶつかる低い音だけが鈍く響いています。


 「ごめんなさい。ごめんなさい」とA子さんは、幼い自分自身に謝り続けます。「こんなところに一人ぼっちで、さぞ辛かったでしょう。もう大丈夫。もう一人ぼっちじゃないよ。迎えに来たよ」


 すると、それまで灰色にくすんでいた子供の輪郭がはっきりとして、生気が感じられるようになってきました。気がつくと、周りの海や断崖が消えて、幼いA子さんは、助けに来た彼女の目の前に立って泣いています。その目を見つめながら、A子さんが「長い間辛い思いをさせて、本当にごめんなさい」と言うと、その子は「ずっと待ってたんだよ!」と胸に飛び込んできました。


 その後A子さんは、今回のセラピーを振り返って、次のように話してくれました。


 「私は小さい頃から、何をしていても心が晴れるということがありませんでした。いつも鈍く、重たい心で過ごしてきました。ちょうど、あの海の底で感じたのと同じ感覚です。それがわかったとき、『これだったんだ。これを感じて、何十年もここに沈んでいたんだね』と、幼い自分に思わず語りかけていました。


 これが、自分に対する供養なんですね。ずっと背負ってきた重い荷物を、やっと降ろせた感じです。私は自分が悪いときですら素直に謝れない頑固な性格でしたが、本当はすごく謝りたかったんだということがわかりました。でも、自分自身に謝っていなかったんですね。自分が謝ってもらってないのに、人になんか謝れませんよね。今回、謝れてよかった。無邪気な自分と、もう一度仲良くなれたみたいです。


 今思うと、幼い私が無邪気に遊んでいると、父は必ず機嫌が悪くなりました。彼は、無邪気では生きて来られなかったのでしょうね。きっと、父も無邪気な自分を捨ててしまったんです。自分が捨ててしまったものを、子供の私に目の当たりに見せられて、耐えられなかったかも知れません。あの断崖の下の深い海の底には、父の無邪気な、幼な子の心も沈んでいたような気がします。父の心も、あのとき一緒に救われたのでしょうか。そうだったらいいなぁと、今、心からそう思います」。


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